【緊急事態宣言】本当に「遅すぎた」のか? 周到な準備から透けてみえるもの

ひとりごとコラム

緊急事態宣言が出されました。

これまで日本人の私たちが目にしてきた海外の「緊急事態宣言」は映画そのものの世界でした。
それは「外出禁止令」に直結するイメージ。州兵や軍隊が展開し、街中を警戒。人々が消え、街はゴーストタウンさながらひっそりと静まり返る。

しかも「緊急事態宣言」「ロックダウン」が同義語として捉えられていたふしもあります。

小池都知事は「ロックダウン」の可能性を示唆することで、当時街にあふれかえる人々に対して緊張感を高めようとしたと思われますが、ある意味裏目にでて「ロックダウンパニック」を引き起こし、街中のひとたちが買いだめに走り、欠品につぐ欠品を目にした人々はさらに不安に陥りました。

その後、メディアは「大丈夫です。物流は止まりません。ものは十分にあります」と繰り返し報道。事実、ある程度商品が店に戻り、人々は冷静になり、今回の緊急事態宣言発令でも、前回の「ロックダウンパニック」などような買いだめ行動は起こりませんでした。

しかし、その間「デマメール」も流れ、多くの人がそれを「疑わしい」と思いつつも、本当にあるかもと思い、不安心理を助長させるなどプチパニックがありましたが、それも数日で沈静化。

国内の感染者数も「爆発的」に増えることはなく、いま世間は冷静さをキープしているように見えます。

一部の識者の方々から「緊急事態宣言を出すのが遅すぎた」「2週間前に出すべきだった」などという声が出ていますが、それはあくまでも結果論でしかないと思っています。もし、徐々に感染者数が減っていれば、出す必要もなかったわけですし、この2、3週間のプチパニックをみていたらわかるように、「物流は正常に機能している」という現実が目の前にあるのにもかかわらず、デマや憶測でパニックが広がる。いま街が平静を保っていられるのは、そうした「プチパニック」を経て、みなが「安心」を取り戻したからで、もしそのような空気が醸成されるまえに、しかも外出禁止令などとは直結しない、という理解が広がる前にやみくもに緊急事態宣言を出していたら、プチパニックどころではすまなかったでしょう。

東京や大阪など宣言の地域に指定された人たちは、その多くが住まいから脱出し、親や親戚のもとに”疎開”したことでしょう。いまもそうした行動をとっている人もいるかもしれませんが、その数ははるかに大きなものになっていたと考えられます。

政治は段階を踏みます。徐々に、徐々に、引き上げていきます。

いきなりドーンとなにか決定的なものを出す、ということはありません。慎重に情勢を見極め、その時その時の絶妙な判断を積み上げていき、用意していた決めの一手を打ちます。

今回のケースで言えば、まず、感染状況から緊急事態宣言を出す必要なのかどうかという見極めはもちろんですが、世間がパニックを起こさないようにするためにどうしたらいいのか、時間をかけて見極めていたとも思えるのです。

だから「出すのが遅すぎた」という論は、確かにその後の感染者数からみたら簡単に吠えることのできることではありますが、一方であまりに無責任な主張だと感じるのです。もちろん、それを聞いた国民からは「そうだ」と納得を得られる単純な主張ではありますが、一方で、背景としてこのような考察もあるということを知ってもらいたいと思います。

 

 

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